西澤明訓が引退
日本代表で活躍(29試合10ゴール)し、2000〜01年にはスペインやイングランドでも
プレーした西澤明訓(33)が、セレッソ大阪がJ1昇格を決めた今日に引退を表明しました。
また一つの時代が終焉を迎えた気がします。
同時期に日本代表で活躍していた選手はもうほとんど引退をしてしまいました。
モリシと西澤の凸凹コンビはこれでもう完全に見れなくなってしまったわけです。
やっぱり寂しいもんですね…。
さて、西澤といえば思い出されるのは何といっても10年前のフランス戦。
ジダン、ジョルカエフ、バルデス…当時最強のフランスに芸術的ボレーを決めたシーンです。
あれは凄かった。
これでエスパニョールへ移籍したようなものだと私は思っているほど凄いシュートでした。
その後ボルトンへ移籍。
考えてみれば中村俊輔より先にエスパニョール、中田英寿より先にボルトンに所属した選手
ということになります。
いまいち結果は残せなかったが…。
その後も「ボレー職人」として数々の芸術的ボレーを日本では決めていたなぁ。
いつも襟を立てていたなぁ。
結構思い出は尽きないものです。
残念ですが、今後のセカンドキャリアに注目しましょう。
これ、凄くね?! ↓↓
プレーした西澤明訓(33)が、セレッソ大阪がJ1昇格を決めた今日に引退を表明しました。
また一つの時代が終焉を迎えた気がします。
同時期に日本代表で活躍していた選手はもうほとんど引退をしてしまいました。
モリシと西澤の凸凹コンビはこれでもう完全に見れなくなってしまったわけです。
やっぱり寂しいもんですね…。
さて、西澤といえば思い出されるのは何といっても10年前のフランス戦。
ジダン、ジョルカエフ、バルデス…当時最強のフランスに芸術的ボレーを決めたシーンです。
あれは凄かった。
これでエスパニョールへ移籍したようなものだと私は思っているほど凄いシュートでした。
その後ボルトンへ移籍。
考えてみれば中村俊輔より先にエスパニョール、中田英寿より先にボルトンに所属した選手
ということになります。
いまいち結果は残せなかったが…。
その後も「ボレー職人」として数々の芸術的ボレーを日本では決めていたなぁ。
いつも襟を立てていたなぁ。
結構思い出は尽きないものです。
残念ですが、今後のセカンドキャリアに注目しましょう。
これ、凄くね?! ↓↓
ラモスの野望
ビーチサッカー日本代表監督のラモス瑠偉監督がW杯アジア予選の
メンバー12人を発表しました。
本当に元日本代表MF前園真聖を選んじゃいました。
憎いことしますな。
さて一方で現在スーパーバイザーを務める東京Vに対しては「12月以降、かかわる
つもりはない」と発言。
決別の裏には何があったのでしょうか?
あんなに東京V愛にあふれていた方だったのに…。
「まずはビーチで結果を出し、その後は浦和で監督をやりたい。Jリーグで結果を出さないと
A代表の監督になれない」と言ったそうな。
A代表の監督になりたいのはわかりますが、浦和の監督やりたいって…
全然関係ないと思うのですが…。
発想が安易な気がしてしまって…んー何かなー。
選手としては好きな選手だっただけに何となく引退後の言動は好きになれません。
私だけでしょうか?
だって「ラモスJAPAN」って…。
何となくしっくりこない。
これなんて凄いよ↓
メンバー12人を発表しました。
本当に元日本代表MF前園真聖を選んじゃいました。
憎いことしますな。
さて一方で現在スーパーバイザーを務める東京Vに対しては「12月以降、かかわる
つもりはない」と発言。
決別の裏には何があったのでしょうか?
あんなに東京V愛にあふれていた方だったのに…。
「まずはビーチで結果を出し、その後は浦和で監督をやりたい。Jリーグで結果を出さないと
A代表の監督になれない」と言ったそうな。
A代表の監督になりたいのはわかりますが、浦和の監督やりたいって…
全然関係ないと思うのですが…。
発想が安易な気がしてしまって…んー何かなー。
選手としては好きな選手だっただけに何となく引退後の言動は好きになれません。
私だけでしょうか?
だって「ラモスJAPAN」って…。
何となくしっくりこない。
これなんて凄いよ↓
tag : ビーチサッカー日本代表 ラモス瑠偉 前園真聖 東京V
何てこった…石川直宏
このブログでも注目しているFC東京の石川直宏が…今季絶望だということになりそうです…。
また怪我をしたシーンは得点ランクで首位の前田遼一と並ぶ15得点目を決めたシーン。
「やったー!!」の後に悶絶…。(前回の記事に動画をアップしてあります)
精密検査の結果、前十字じん帯不全損傷と診断されてしまいました。
軽傷を祈っていただけに非常に残念でなりません。
過去に同じ怪我をした森本貴幸の場合はボールを蹴るまでに3か月、全治には6か月かかりました。
それを考慮すると、今季の復帰どころか、せっかく5年半ぶりに復帰し、いいアピールができていた
日本代表での南アフリカ遠征も絶望的でしょう…。
ただ本人は「最悪の場合の覚悟はしているので、それより前に復帰できれば気は楽。
手術が必要だとしても僕自身は切り替えている」と気丈に話したそうで…。
私も切り替えねば…
早期の復帰を願うばかりです。
こんなプレーをしていただけに残念です…。
また怪我をしたシーンは得点ランクで首位の前田遼一と並ぶ15得点目を決めたシーン。
「やったー!!」の後に悶絶…。(前回の記事に動画をアップしてあります)
精密検査の結果、前十字じん帯不全損傷と診断されてしまいました。
軽傷を祈っていただけに非常に残念でなりません。
過去に同じ怪我をした森本貴幸の場合はボールを蹴るまでに3か月、全治には6か月かかりました。
それを考慮すると、今季の復帰どころか、せっかく5年半ぶりに復帰し、いいアピールができていた
日本代表での南アフリカ遠征も絶望的でしょう…。
ただ本人は「最悪の場合の覚悟はしているので、それより前に復帰できれば気は楽。
手術が必要だとしても僕自身は切り替えている」と気丈に話したそうで…。
私も切り替えねば…
早期の復帰を願うばかりです。
こんなプレーをしていただけに残念です…。
やっぱり石川直宏が熱い
石川直宏が凄いことになっているので、今回は「石川直宏特集」です。
さて日本代表に復帰し、それなりの手ごたえがあった石川。
昨日の試合でも得点をあげ、得点王ランキングトップタイに躍り出ました。
が…その着地の際、左ひざをひねり負傷。
かなり状態が気になるところです。
しかし、今回はそれは置いておき石川の経歴などを紹介します。
元々は中央でプレーする司令塔タイプであったが同年代の選手と比べて身体の成長が遅く伸び悩み試行錯誤の末サイドという適正を見出したWGタイプのドリブラー。
「スピードスター」と評される日本人屈指の俊足と飛び跳ねるような鋭角なステップのドリブルを武器としてキレのある早い動きでサイドを切り裂き攻撃を活性化させる。
好調時には誰にも止められず手がつけられないが不調時は試合から消えてしまうといったムラの激しさが弱点であったが近年改善されつつある。
主要ポジションは右サイドであるが流れの中で左サイドにポジションチェンジを行い、タッチライン際を駆け上がりクロスを上げゴールチャンスを演出する。
また機を見て中央に切り込み決定的なパスを供給したり、両足どちらからでも繰り出される豪快なミドルシュートを武器としている。
所属チームではセットプレーを担当する事も多く、以前はクロス同様精度に波があったが城福監督の就任以降は改善され、2008年シーズンは怪我等で出場時間が短いながらチーム内のアシスト王となった。
サイドアタックを売りとする原博実監督体制下では長所を伸ばしリーグ屈指のサイドアタッカーへと成長を遂げたが、ムービングサッカーを掲げるパスサッカーの城福浩監督体制下において2シャドーの一角を経験し、今までとは異なる要求をされたことでプレーヤーとしての幅を広げ、味方選手に使われるプレーだけでなく、味方選手を使うプレーも増え状況によってプレーを変える柔軟性を身につけた。
それに伴いポジションもサイド一辺倒からサイド・中央や敵陣・自陣の区別なく状況に応じて頻繁にポジションチェンジを行い、ピッチを所狭しと駆け回るため、相手チームからすれば神出鬼没な石川を押さえるのは難しくなっている。
特に2009年シーズンはゴールまでの明確なイメージとゴール前で時間がゆっくり流れていると本人が表現するようにプレー中の広い視野、瞬時の判断力を身につけたことにより個人技とチームプレーの両方で得点を量産しストライカーとしての資質を存分に発揮している。
攻撃的な選手としてイメージが強いが前線からのプレスや自陣まで戻ってディフェンスを行うこともある。
また守備能力も以前はカウンターを封じるディレイ程度であったが近頃ではボールを奪うプレーも見られ攻守においてチームのキーマンとして活躍している。
小学校時、地元の少年少女サッカークラブである横須賀シーガルスに所属。
神奈川県内の大会では厚木市のゴールプランダーズに所属していた茂庭照幸と対戦し、このころから面識があった。
中学に入ると横浜マリノスジュニアユース追浜に所属し、高校進学時に横浜マリノスユースに昇格。ユース時代当初はトップ下であったが、同期の大橋正博の中央エリアでの能力が開花し、対して石川は身長が伸びるのが遅かったため中央からサイドへとプレーエリアが変わった。
2000年には横浜F・マリノスのトップチームに昇格となり、Jリーグデビュー。
U-19日本代表としてアジアユース、U-20日本代表としてワールドユースアルゼンチン大会に背番号10を背負って出場、この大会のテレビ解説を原博実が担当していた事が後にサッカー人生の契機となる。
横浜FMは2001年に成績が低迷し監督交代が相次ぎ、出場機会に乏しかった。
ラザロニ監督とは特に相性が合わず、石川は紅白戦での「Bチームの控え」にも入れてもらえず、2002年も引き続いてラザロニが指揮を執ることになった状況に危機感を持ち、自ら横浜FM強化部に「(行くチームは)どこでもいいですから試合に出られる環境を作ってください」と直訴した。
この2002年から原博実はFC東京の監督に就任しており、すでに東京の右サイドにはチームの顔とも言える佐藤由紀彦の存在もあったが、その佐藤が当時負傷を抱えたことから、佐藤の代役としてアルゼンチンでの石川のスピード溢れるプレーが頭に焼きついていた原がFC東京サイドに獲得を要望。
FC東京のクラブ施設を見学に来た石川と対面した際の「今(FC東京に)来たらすぐ使っちゃうよ」という原の口説き文句もあり、4月にFC東京へのレンタル移籍が決定。口説き文句の通り、移籍発表からわずか3日後の駒沢でのナビスコカップ・清水戦で早速右のサイドアタッカーとして先発出場すると、そのずば抜けたスピードによる突破で得点をアシスト、それに加えてそれまでのFC東京には存在しないタイプの、クラブユース育ちならではのテクニックとボールタッチでサポーターを唸らせた。
その後、ほぼ同じ時期にFC東京の右サイドバックとして出場機会の与えられた加地亮とのコンビネーションで右サイドからの攻撃を担い、以後ポジションを確保。U-21日本代表としては、10月の釜山アジア大会では準優勝に貢献。
2002年シーズン終了後、レンタル元の横浜FMからは「戻って来い」、FC東京からは「残って欲しい」という状況になり、石川本人の判断で東京へのレンタル期限が1年延長され、翌2003年8月には(入れ替わりで横浜FMにレンタル移籍していた佐藤由紀彦と交換トレードのようなかたちで)FC東京に完全移籍となった。
また、アテネオリンピックを目指すU-22日本代表として活動する一方で、この年のキリンカップのためのA代表に初選出される。
同年の東アジアサッカー選手権でもA代表に選出され、香港戦において国際Aマッチ初出場を記録(U-22代表から抜擢されたのは大久保嘉人、松井大輔と石川の3人)。
2004年には再び日本代表候補合宿に招集されていたが、日本サッカー協会のオリンピック優先という方針によりU-23日本代表に合流、アテネオリンピックアジア最終予選を突破する。
アテネ本大会では、強豪イタリアと同組だった事もあり、山本昌邦監督は守備重視の戦術で大会に挑んだ為に石川の出番は少なく、ようやく先発で出番が来た試合の前半では攻撃を牽引したにもかかわらずハーフタイムで交代を言い渡され、消化不良のままグループリーグでの敗退が決定。
競技場のサポーターに挨拶する際には誰よりも号泣し、ギリシャの地を去ることとなった。 クラブでは、リーグ戦ではゴールが無かったが、初選出されたオールスター戦ではゴールを決めた上にMVPを受賞。
ナビスコ杯では優勝を体験するが、決勝の浦和戦では退場者を出し更に運動量が求められ、自身初となる延長戦までの120分フル出場で走り回り奮闘したため足がつり始めており、決着をつけるPK戦を蹴る5人を決める際、原監督に「ちょっと厳しいです」と状態を正直に話し、PKメンバーには入らなかった。
2005年8月にイタリア・セリエAに昇格となったトレヴィゾから獲得オファーがあり、熟考の末に石川はイタリア移籍を腹に決め、パスポート持参ですぐに出国できる準備を整えた上で、FC東京のクラブハウスでの最終交渉に挑んだが、FC東京の苦戦が続いた時期と重なり、石川が欠けてはJ2降格が現実味を帯びる状況だったため、交渉最終段階にきてオファーを断った(結果論だが、その後開幕からトレヴィゾは大苦戦で最下位を独走しセリエB転落となったことから、行かなくて正解だったという意見もある)。
その決断の直後、あらためて心機一転の9月、日産スタジアムでの古巣・横浜FM戦の試合後半に右膝を傷め途中退場。検査の結果、右膝前十字靭帯損傷および右膝外側半月板損傷・全治8ヶ月との診断を受け、長期のリハビリテーション期間を過ごす事になった。
2006年にガーロ監督が就任したが、その在任期間が右膝のリハビリの時期と重なっており、ガーロ体制下でのプレーは少ない。
同年7月19日のアビスパ福岡戦で305日ぶりの復帰を果たした。 その後の倉又寿雄監督体制下から2007年の原監督が復帰したシーズンは、大怪我を負う以前のスタイルを求められていたようであるが、石川本人は既にかなり研究されてもいたそのプレースタイルに疑問を抱き、中へ切れ込んだり、引いてボールを受けたりという自身のプレーの幅の広がりを模索していたため、あくまで以前のように「右サイドで張っている」ことを求める原監督と意見が合わないこともあったといわれる。
そのためか調子が上がらず、チーム自体の不調もあり、試合出場の機会が減った時期もあった。
2008年に就任した城福浩監督は、石川の目指すプレースタイルを生かしていくことも考えており、再び生き生きとしたプレーが見られるようになった。
自由度が増した結果、苦し紛れのパスは減り、課題であったパスやクロスの精度が見違えるほど向上し、安定感が増した。同タイプのプレーをするMF鈴木達也の新加入や、大竹洋平など若手の台頭もありチーム内での競争が活性化し刺激を受けたためもあってか、特にリーグ後半は無くてはならないプレーヤーとなり、チームを3年連続の二桁順位から年間6位、天皇杯4位へと押し上げる原動力となった。
2009年5月2日のJリーグディビジョン1の大宮戦で自身初のハットトリックを決めた。この日は、年に一度しか来ない家族が見に行った日でもあった。同年10月に約5年半ぶりに日本代表に招集された。
実弟の石川貢も静岡FCやアルテ高崎に所属した元サッカー選手。
ポジジョンはDF。2008年シーズン前に退団し現役を引退。現在は指導者を目指し活動している。
もう1人の実弟の石川扶もサッカー選手でポジションはGK。2009年から北信越リーグ・松本山雅FCへ移籍。
とまぁ調べてみると面白いですよね。
栄光と挫折を繰り返し、今に至っているわけです。
多くのサッカー選手がそうなのでしょうが、やっぱりここまでくると応援したくなります。
何とか怪我が軽傷であって欲しいと願うばかりです。
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さて日本代表に復帰し、それなりの手ごたえがあった石川。
昨日の試合でも得点をあげ、得点王ランキングトップタイに躍り出ました。
が…その着地の際、左ひざをひねり負傷。
かなり状態が気になるところです。
しかし、今回はそれは置いておき石川の経歴などを紹介します。
元々は中央でプレーする司令塔タイプであったが同年代の選手と比べて身体の成長が遅く伸び悩み試行錯誤の末サイドという適正を見出したWGタイプのドリブラー。
「スピードスター」と評される日本人屈指の俊足と飛び跳ねるような鋭角なステップのドリブルを武器としてキレのある早い動きでサイドを切り裂き攻撃を活性化させる。
好調時には誰にも止められず手がつけられないが不調時は試合から消えてしまうといったムラの激しさが弱点であったが近年改善されつつある。
主要ポジションは右サイドであるが流れの中で左サイドにポジションチェンジを行い、タッチライン際を駆け上がりクロスを上げゴールチャンスを演出する。
また機を見て中央に切り込み決定的なパスを供給したり、両足どちらからでも繰り出される豪快なミドルシュートを武器としている。
所属チームではセットプレーを担当する事も多く、以前はクロス同様精度に波があったが城福監督の就任以降は改善され、2008年シーズンは怪我等で出場時間が短いながらチーム内のアシスト王となった。
サイドアタックを売りとする原博実監督体制下では長所を伸ばしリーグ屈指のサイドアタッカーへと成長を遂げたが、ムービングサッカーを掲げるパスサッカーの城福浩監督体制下において2シャドーの一角を経験し、今までとは異なる要求をされたことでプレーヤーとしての幅を広げ、味方選手に使われるプレーだけでなく、味方選手を使うプレーも増え状況によってプレーを変える柔軟性を身につけた。
それに伴いポジションもサイド一辺倒からサイド・中央や敵陣・自陣の区別なく状況に応じて頻繁にポジションチェンジを行い、ピッチを所狭しと駆け回るため、相手チームからすれば神出鬼没な石川を押さえるのは難しくなっている。
特に2009年シーズンはゴールまでの明確なイメージとゴール前で時間がゆっくり流れていると本人が表現するようにプレー中の広い視野、瞬時の判断力を身につけたことにより個人技とチームプレーの両方で得点を量産しストライカーとしての資質を存分に発揮している。
攻撃的な選手としてイメージが強いが前線からのプレスや自陣まで戻ってディフェンスを行うこともある。
また守備能力も以前はカウンターを封じるディレイ程度であったが近頃ではボールを奪うプレーも見られ攻守においてチームのキーマンとして活躍している。
小学校時、地元の少年少女サッカークラブである横須賀シーガルスに所属。
神奈川県内の大会では厚木市のゴールプランダーズに所属していた茂庭照幸と対戦し、このころから面識があった。
中学に入ると横浜マリノスジュニアユース追浜に所属し、高校進学時に横浜マリノスユースに昇格。ユース時代当初はトップ下であったが、同期の大橋正博の中央エリアでの能力が開花し、対して石川は身長が伸びるのが遅かったため中央からサイドへとプレーエリアが変わった。
2000年には横浜F・マリノスのトップチームに昇格となり、Jリーグデビュー。
U-19日本代表としてアジアユース、U-20日本代表としてワールドユースアルゼンチン大会に背番号10を背負って出場、この大会のテレビ解説を原博実が担当していた事が後にサッカー人生の契機となる。
横浜FMは2001年に成績が低迷し監督交代が相次ぎ、出場機会に乏しかった。
ラザロニ監督とは特に相性が合わず、石川は紅白戦での「Bチームの控え」にも入れてもらえず、2002年も引き続いてラザロニが指揮を執ることになった状況に危機感を持ち、自ら横浜FM強化部に「(行くチームは)どこでもいいですから試合に出られる環境を作ってください」と直訴した。
この2002年から原博実はFC東京の監督に就任しており、すでに東京の右サイドにはチームの顔とも言える佐藤由紀彦の存在もあったが、その佐藤が当時負傷を抱えたことから、佐藤の代役としてアルゼンチンでの石川のスピード溢れるプレーが頭に焼きついていた原がFC東京サイドに獲得を要望。
FC東京のクラブ施設を見学に来た石川と対面した際の「今(FC東京に)来たらすぐ使っちゃうよ」という原の口説き文句もあり、4月にFC東京へのレンタル移籍が決定。口説き文句の通り、移籍発表からわずか3日後の駒沢でのナビスコカップ・清水戦で早速右のサイドアタッカーとして先発出場すると、そのずば抜けたスピードによる突破で得点をアシスト、それに加えてそれまでのFC東京には存在しないタイプの、クラブユース育ちならではのテクニックとボールタッチでサポーターを唸らせた。
その後、ほぼ同じ時期にFC東京の右サイドバックとして出場機会の与えられた加地亮とのコンビネーションで右サイドからの攻撃を担い、以後ポジションを確保。U-21日本代表としては、10月の釜山アジア大会では準優勝に貢献。
2002年シーズン終了後、レンタル元の横浜FMからは「戻って来い」、FC東京からは「残って欲しい」という状況になり、石川本人の判断で東京へのレンタル期限が1年延長され、翌2003年8月には(入れ替わりで横浜FMにレンタル移籍していた佐藤由紀彦と交換トレードのようなかたちで)FC東京に完全移籍となった。
また、アテネオリンピックを目指すU-22日本代表として活動する一方で、この年のキリンカップのためのA代表に初選出される。
同年の東アジアサッカー選手権でもA代表に選出され、香港戦において国際Aマッチ初出場を記録(U-22代表から抜擢されたのは大久保嘉人、松井大輔と石川の3人)。
2004年には再び日本代表候補合宿に招集されていたが、日本サッカー協会のオリンピック優先という方針によりU-23日本代表に合流、アテネオリンピックアジア最終予選を突破する。
アテネ本大会では、強豪イタリアと同組だった事もあり、山本昌邦監督は守備重視の戦術で大会に挑んだ為に石川の出番は少なく、ようやく先発で出番が来た試合の前半では攻撃を牽引したにもかかわらずハーフタイムで交代を言い渡され、消化不良のままグループリーグでの敗退が決定。
競技場のサポーターに挨拶する際には誰よりも号泣し、ギリシャの地を去ることとなった。 クラブでは、リーグ戦ではゴールが無かったが、初選出されたオールスター戦ではゴールを決めた上にMVPを受賞。
ナビスコ杯では優勝を体験するが、決勝の浦和戦では退場者を出し更に運動量が求められ、自身初となる延長戦までの120分フル出場で走り回り奮闘したため足がつり始めており、決着をつけるPK戦を蹴る5人を決める際、原監督に「ちょっと厳しいです」と状態を正直に話し、PKメンバーには入らなかった。
2005年8月にイタリア・セリエAに昇格となったトレヴィゾから獲得オファーがあり、熟考の末に石川はイタリア移籍を腹に決め、パスポート持参ですぐに出国できる準備を整えた上で、FC東京のクラブハウスでの最終交渉に挑んだが、FC東京の苦戦が続いた時期と重なり、石川が欠けてはJ2降格が現実味を帯びる状況だったため、交渉最終段階にきてオファーを断った(結果論だが、その後開幕からトレヴィゾは大苦戦で最下位を独走しセリエB転落となったことから、行かなくて正解だったという意見もある)。
その決断の直後、あらためて心機一転の9月、日産スタジアムでの古巣・横浜FM戦の試合後半に右膝を傷め途中退場。検査の結果、右膝前十字靭帯損傷および右膝外側半月板損傷・全治8ヶ月との診断を受け、長期のリハビリテーション期間を過ごす事になった。
2006年にガーロ監督が就任したが、その在任期間が右膝のリハビリの時期と重なっており、ガーロ体制下でのプレーは少ない。
同年7月19日のアビスパ福岡戦で305日ぶりの復帰を果たした。 その後の倉又寿雄監督体制下から2007年の原監督が復帰したシーズンは、大怪我を負う以前のスタイルを求められていたようであるが、石川本人は既にかなり研究されてもいたそのプレースタイルに疑問を抱き、中へ切れ込んだり、引いてボールを受けたりという自身のプレーの幅の広がりを模索していたため、あくまで以前のように「右サイドで張っている」ことを求める原監督と意見が合わないこともあったといわれる。
そのためか調子が上がらず、チーム自体の不調もあり、試合出場の機会が減った時期もあった。
2008年に就任した城福浩監督は、石川の目指すプレースタイルを生かしていくことも考えており、再び生き生きとしたプレーが見られるようになった。
自由度が増した結果、苦し紛れのパスは減り、課題であったパスやクロスの精度が見違えるほど向上し、安定感が増した。同タイプのプレーをするMF鈴木達也の新加入や、大竹洋平など若手の台頭もありチーム内での競争が活性化し刺激を受けたためもあってか、特にリーグ後半は無くてはならないプレーヤーとなり、チームを3年連続の二桁順位から年間6位、天皇杯4位へと押し上げる原動力となった。
2009年5月2日のJリーグディビジョン1の大宮戦で自身初のハットトリックを決めた。この日は、年に一度しか来ない家族が見に行った日でもあった。同年10月に約5年半ぶりに日本代表に招集された。
実弟の石川貢も静岡FCやアルテ高崎に所属した元サッカー選手。
ポジジョンはDF。2008年シーズン前に退団し現役を引退。現在は指導者を目指し活動している。
もう1人の実弟の石川扶もサッカー選手でポジションはGK。2009年から北信越リーグ・松本山雅FCへ移籍。
とまぁ調べてみると面白いですよね。
栄光と挫折を繰り返し、今に至っているわけです。
多くのサッカー選手がそうなのでしょうが、やっぱりここまでくると応援したくなります。
何とか怪我が軽傷であって欲しいと願うばかりです。
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日本代表3連戦 ナイス沢登
日本代表3連戦が終了しました。
今回に関しては3連勝したものの賛否ある内容だったでしょう。
相変わらずセルジオ越後氏は「あまりにひどい試合」とばっさり。
「10点とってもおかしくない試合では強化にもテストにもならない。これなら試合などせず
練習している方がマシ。興行はもう十分で強化をして欲しい。」
うん。まったくその通りなのだが、それ言っちゃあ元も子もないよね?
選手はどうすることもできないわけだし。
もっとポジティブにとらえて、試合の感想を述べて欲しいものだ。
その点では沢登氏はいいですね。
「前半45分のみだったが、森本は代表主力組と融合できた。トーゴの出来に関係なく、チームの
狙い通りに得点できたことは連係がよいことを証明している。(中略)トーゴ戦で森本が決定的な
仕事をした結果は、岡田ジャパンにとって大きなプラス材料だ。」
そうそう♪
やっぱりこうでないと。
相手チーム云々じゃないことは試合前からわかっていたこと。
その中から光明を見出していかなければ、それこそ強化にならないと思うのですが
どうでしょう?
今回に関しては3連勝したものの賛否ある内容だったでしょう。
相変わらずセルジオ越後氏は「あまりにひどい試合」とばっさり。
「10点とってもおかしくない試合では強化にもテストにもならない。これなら試合などせず
練習している方がマシ。興行はもう十分で強化をして欲しい。」
うん。まったくその通りなのだが、それ言っちゃあ元も子もないよね?
選手はどうすることもできないわけだし。
もっとポジティブにとらえて、試合の感想を述べて欲しいものだ。
その点では沢登氏はいいですね。
「前半45分のみだったが、森本は代表主力組と融合できた。トーゴの出来に関係なく、チームの
狙い通りに得点できたことは連係がよいことを証明している。(中略)トーゴ戦で森本が決定的な
仕事をした結果は、岡田ジャパンにとって大きなプラス材料だ。」
そうそう♪
やっぱりこうでないと。
相手チーム云々じゃないことは試合前からわかっていたこと。
その中から光明を見出していかなければ、それこそ強化にならないと思うのですが
どうでしょう?

